北緯1度の暮らし

書きたいことを書いています。

グレゴリ青山とイトウエルマ

イトウエルマのことを書こうとして、ふと、グレゴリ青山を思い出した。Amazonによると、グレゴリ青山の「旅のグ」が発売されたのは1996年だそうだ。ひと昔、いやふた昔ほど前か。まだバッグパッカーが人気があった時代だった。海外旅行が好きだった私が、東南アジアの魅力にとりつかれた頃だった。「旅のグ」を本屋で何度も立ち読みしては、げーげー笑いこけ、結局、本を購入した。読者カード(はがき)に感想を書いて送ったら、印刷された定型分ながらお礼の返事が届いた。本を買ってくれただけで嬉しいのに、感想を送ってくれてありがとー!とっても嬉しいー‼︎ みたいな文面だったと記憶している。

久しぶりにグレゴリ青山の消息をネットで検索してみたところ、京都におちついてしばらく旅行記は書いていないようだ(もちろん今は海外には行けない)。

イトウエルマを知ったのは2年ほど前で、日経ビジネスオンラインで読んだマンガでファンになった。以来、彼女のブログを愛読している。毎回おもしろいのだが、特に読書感想文が秀逸である。海外に住んでいたことがあるようで、経験が豊富な上に経験から学ぶ洞察力に非凡な才能を感じる。

グレゴリ青山もイトウエルマも、漫画家というよりもイラストレーター的な立ち位置にいるように思われるが、実は私はこの二人の「マンガ」を愛している。いつかCOVID-19が終息したら、グレゴリ青山には旅に出てほしい。そしてまたマンガを描いてほしい。イトウエルマには、マンガに軸足を移して活躍してほしい。私がいくら願ったところで他人の生き方を変えることはできないのだが。それでも

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昨日の夕焼け


私はこの二人のマンガを愛しているから。

 

 

櫻庭露樹と近藤麻理恵 -掃除と片付けの哲学-

あまり人には言っていないのだが、櫻庭露樹という人のYouTubeチャンネルをよく視聴している。ばかばかしいと思いながらも、ついつい毎回再生してしまう。50代の櫻庭露樹が昭和ネタおやじギャグを連発すると、相方の30代アシスタントが「なんですか、それは?」とボケたり突っ込んだりするのが、疲れた頭にふうっと笑いを吹き込んでくれる。そのアシスタントがまた、イケメンでもないくせにバカバカしいながら素直そうで好感度が高い不思議なキャラクターなのである。

さて、このばかばかしい二人の掛け合いはさておき、この櫻庭露樹という人は、開運のための断捨離ならぬ「全捨離」を提唱している。徹底的に捨てる、部屋に物を置かない、とにかく床面積を広げる、などを動画の中で繰り返し提唱しているのだが、特に師匠である小林正観の教えである徹底的なトイレ掃除を踏襲&推奨している。トイレをきれいにするのはよいことであって、悪いことなどひとつもないが「トイレを掃除すると運気が上がる、お金が入ってくる」と言われると、いかにも胡散臭い気がするだろう。

YouTubeを視聴するうちにわかったことであるが、こういう種類の人は、自分を含めたスピリチュアル系のカリスマを「こちらの世界の人」と呼んでいるようだ。

以前、片付けコンサルタントの近藤麻理恵(こんまり)のコンサルティングを取材したテレビのドキュメンタリー番組を見たとき、これはもはや宗教だなと感じた。テクニカルなノウハウを教えるだけでは改善しない重症なクライアントに対して、潜在意識下にあったトラウマの存在を顕在化させ、忘れていた心の傷跡に向き合わせる様子は過酷だ。私はそれをコンマリ教と呼ぶ。

にもかかわらず、こんまり自身の言動には胡散臭いスピリチュアルの匂いが全くしない。あくまでスッキリした部屋で気持ちよく暮らしたい、好きなものを身近に置いてハッピーな気分でいたい、片付ける行為そのものが好きで、楽しいのだ。

一方、櫻庭露樹の場合、全捨離は開運のための手段である。「トイレを掃除するとお金が入ってくる」というのは、一見、非科学的に思われる。だが私は考えた。「南無阿弥陀を唱えれば誰でも極楽浄土に行ける」というのと同じことではないだろうか。お経を唱えることは目的ではなく、極楽浄土に行くことが目的なのである。そもそも極楽浄土という概念からして科学からかけ離れているが、南無阿弥陀仏を唱えることで救われる精神があるのだろう。全捨離もこれと同じで、トイレといういわば家の中で最も汚い部分をピカピカに磨き上げることで、他の部屋の汚れが気になり掃除したくなり、結果的に家の中がきれいになる。普通の人があまりやりたがらないトイレ掃除を率先してやると、人に信用されたり尊敬されたりするかもしれない。ひいてはそれが開運につながるのではないだろうか。

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Fullerton Hotel のアフタヌーン・ティー

 

フローからストックへ -ちきりんVoicyがおもしろい-

昔読んだ本で「時給で働くのではなく、投資して人に働いてもらおう」みたいなことが書いてあったのを覚えている。本の題名と著者を忘れてしまったのだが、たぶん自己啓発系の本だっと思う。例えば、家庭教師やマッサージなど、1時間いくらで一対一のサービスを提供する仕事を生業にすると、自分が休んだ分は無収入になってしまうので、いつも働いていないといけなくなる。そもそも、よほどのスターかカリスマでない限り、時給単価を上げるにも限度があるだろう。一方、ビジネスを拡大して部下に仕事を任せたり、家賃収入を得たり、株式投資の配当やキャピタルゲインがあると、自分は休むこともできるし、月収や年収を増やせる可能性も広がる。そんなの当たり前でしょ、と言われそうだが、当時まだ若かった私は「なるほど」と納得し、印象に残っていた。

先日「ちきりんの日記」を書いている社会派ブロガーのちきりんが Voicy で「SNSに書くことを一過性のものとして終わらせるのではなく、年月を経ても何度も読まれる文章として残す」ことの有効性について説明していて、目から鱗が落ちた。

(2020年9月28日放送)2020/09/28 #005 フローからストックへ/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア

ブログやYouTubeを一過性のものとして作成すると、常に最新版をアップし続けてゆかなければ、収入を増やしていくことが難しくなるため、いつも働いていなくてはいけなくなる。それって、基本的には時給で働いているのと同じことではないだろうか。

ちょうど先日たまたま見たYouTubeで、奥野一成氏が株式投資についてレクチャーしている動画があり、これが線でつながった。

NewsPics レジェンド投資家に学ぶ「株式投資7つの誤解」

https://youtu.be/Zr41_9F3x4Q

短期売買で稼ごうとする人は、常に取引をし続けなければ収入は得られない。一方、長期投資は、その事業のオーナーになるということ。短期的な上がり下がりに一喜一憂することは無駄が多い。

そういえば、何かのアンケートで、「老後に後悔したこと」の何位かに「もっと資産運用をしておけばよかった」というのがランクインしていたっけ。

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赤いライトが点灯している Sports Hub

 

ヒンズー正月 ディパバリ / Deepavali in Singapore 2020

COVID-19の流行で、シンガポールでも一時は市中感染が増加し、4月初旬から約2ヶ月間の外出制限(サーキットブレーカー/ソフトロックダウン)もあった。幸いシンガポール政府の賢明なリーダーシップの下で、その後は市中感染者数を抑制しつつ、慎重に経済活動が再開されていった。北半球が冬に突入して多くの国々で第2波、第3波が猛威をふるう現在に至るまで、シンガポールで生活物資が不足したり価格が高騰することもなく、不自由のない生活を継続できていることは文字通り「有難い」ことであり、この国に住まわせてもらっている者のひとりとして、シンガポール政府、公務員、エッセンシャルワーカーの方々には心から感謝している。

ただ、この国の新規感染者数の推移を海外から見たときに、ピーク時の患者の異常な多さに驚いた人は多かっただろう。言うまでもなくそれは、外国人肉体労働者の宿舎(ドミトリー)での集団感染である。それが世間で問題視され始めた頃、狭い部屋に10〜12人が押し込まれたタコ部屋状態のドミトリーの環境の悪さが取り沙汰され、海外のメディアでも報道された。それに対するシンガポール政府の対応は的確であったにもかかわらず、ドミトリーでの伝染病拡大を防止できなかったことは、この国に内在していた闇の部分を露呈する結果となり、近年の華やかなイメージを損ないかねない汚点となってしまったことは否めないだろう。

シンガポール人材開発省(MOM)によると、2020年6月時点での外国人肉体労働者は35万人で、うち30万人以上がドミトリーでの集団生活を送っている。同省及び保健省による必死の努力にもかかわらず、ドミトリー居住者全員のPCR検査を完了するまでには、長い日数を要した。

ご承知のとおり、シンガポールは移民の国である。人口150人ほどの漁村だった小さな島が1819年に英国植民地になると、海のはるか向こうの国々から労働力が調達され、その多くは苦力(クーリー)として肉体労働に携わった。クーリーといえば中国人と思われがちだが、タミル人を筆頭に南アジアからも移民はやってきた。

当初、東インド会社はシンガポールをインド人囚人の流刑地としても使っており、流刑者は植民地政府機関、道路や橋、教会などの建設に従事させられた。1873年を最後に囚人は送り込まれなくなったが、社会インフラの建設需要は高まり続け、1900年代になるとインド人移民はさらに増えていった。彼らは建設現場のある行政中心部近くに住んでいたが、人数があまりにも増えすぎてしまい住居地が手狭になってしまったため、当時まだ余裕があったセラングーン・ロードにインド人労働者のための住居(テラスハウス)が建てられた。

スタンフォード・ラッフルズは、アジア人移民に対しては民族別に居住地を指定し、棲み分ける政策を採っていた。中華街やカンポン・グラムのイスラムコミュニティなどは、都市計画の一環でつくられた地域だが、セラングーン・ロードにインド系移民が多く住み着くようになったのは、ラッフルズの時代から100年近く後のことであり、セラングーン・ロードが「リトル・インディア」と呼ばれるようになるのは、それからさらに半世紀以上を経た後のことであった。シンガポール観光局が「リトル・インディア」という地域を示す呼称を初めて使用したのは、1979−80年のことである。

さて、11月14日は今年のヒンズー正月、ディパバリだ。その時期になると、リトル・インディア(セラングーン・ロード)の夜はイルミネーションで彩られる。幸い、最近の新規国内感染者数は、ドミトリーも含めて0〜2人で推移しており、買物客でごった返すリトル・インディアを見ていると、シンガポール人は今年もほぼ例年通りのディパバリを迎える準備ができているのではないかと見受けられる。

しかしドミトリー居住者は、いまだに単独行動を許されていない。別のドミトリーに住む友人にプライベートで会ったり、ヒンズー寺院にお参りすることもかなわないままでいる。

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セラングーン・ロードのイルミネーション

 

楽しいことって、なに?

前回「楽しいことをして生きる」について書いた。「ちきりんの日記」を書いている社会派ブロガーちきりんの Voicy を聴いて、収入を増やすことより楽しいことをして生きることを優先している彼女の選択に衝撃を受けた。

ちきりんの「楽しいこと」は、マンガを読んだりゲームをしたりペットを飼ったりすることではない。彼女にとってより価値の高い経験(=楽しいこと)とは、大勢の人の前で講演をすることではなく、普通の人として、いちメンバーとして、小人数の読書会に参加することなのだ。さらには、少人数の参加者を募って面識のない人と一緒に行く旅行を企画したいというのだから、驚いた。

(2020年10月1日放送)2020/10/01 #008 400人より4人のイベント/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア

そういうことを考えていたら、今日たまたま、このビデオをYouTubeで見た。

最高副業月収700万円! AKIOBLOGに聞く「本業と副業を両立させる時間術」 - YouTube

インタビューを受けているのは会社員をしながら副業を成功させた人なのだが、好きなことを副業にするのでなければ、単なるダブルワークになってしまうんだろうな、と今さらながら気づかされた。リクルート社員として副業として始めたことが本業になっていった人といえば、片づけコンサルタントの “こんまり“ こと近藤麻理恵を思いつくが、こんまりと共通しているのは、人の役に立つ価値を提供しているということだ。

私にとって、今、最も楽しいことは、水泳だ。水泳は健康に良いと言われているし、何より最高に気持ちよく、幸福を感じる。だが私が泳いでも社会に何も価値を提供していないし、泳ぐことで社会に価値を提供したいとも思わない。

とりあえずは、これを書いている。

 

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COVID-19感染拡大を防ぐために、人が集まりそうな多くの公共スペースが長い間立ち入り禁止になっていた。川沿いの広場も最近開放されて、人々が散歩や夕涼みを楽しんでいる。

楽しいことをして生きる

お金が充分あっても幸せじゃない人がたくさんいる。成功していると思われている人が、ある日突然自殺する。そんな人たちの気持ちが、どうしても理解できなかった。私は、お金の心配をしなくていい人生にずっと憧れていたから。もちろん、お金では買えないものだってあるだろう。でもお金でたいていのストレスは解決できるし、人生における最大の心配事は、たいていの人にとってやはりお金ではないだろうか。

歳を重ねて、できるだけストレスを感じないよう、うまくやりすごして生きていく術を少しずつ身につけていった。今では、わりと自由にお金を使うことができるし、欲しいものをガマンすることが少なくなった。現在流行中のCOVID-19対策として市民の行動が制限されたことも、出費抑制に効いている。恐ろしい世界的パンデミックは、思いがけず今までの生活を見直すよい機会となり、私にとっては怪我の功名と言える。ふと気がつくと、これってものすごく幸せなことなんじゃないだろうか、そう思ったのだ。

「ちきりんの日記」を書いている社会派ブロガーのちきりんのブログやTwitterを何年も愛読していながら、先日Voicyを聴いて衝撃を受けた話を前回書いた。何がそんなに衝撃だったかというと、多くのブロガーやユーチューバーがより価値の高いコンテンツに課金しようとする中、ちきりんは逆のことを考え、実践しているのである。

(2020年10月23日放送)2020/10/22 #028 何を有料にするかという基準/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア

それは世間一般とは真逆のやり方であるにもかかわらず、ちきりんの説明を聞くと、まるで理にかなっているのである。なぜなのか。常識の逆を行っているのに、ちきりんの言っていることは至極正論に聞こえる。なぜなのか?社会の常識が間違っているということなのか……?

私の答えはこうだ。フォロワーの多いいわゆるインフルエンサーと呼ばれる人々も含め、大多数の人々は、お金を稼ぐことを主眼においている。もちろん、みんながみんなお金のために自己犠牲を強いているわけではない。インフルエンサーと呼ばれる人々は、自分の好きなこと、得意なことをしながら稼ぐのがとても上手だ。だが結局のところ、目指しているのは収入を上げることだろう。

一方、ちきりんは、(もちろん生活コストや娯楽費を賄うための効率的な収益化を重視しているものの)、彼女の最終目的はお金ではない。ちきりんが常に意識していることは、「楽しいことをして生きる」ことなのだ。

今、私は、若い頃には考えられなかったような生活をしている。全く不幸ではない。とても幸せだ。満足している。今は。

だが、今の幸せが死ぬまで続くとは限らない。人生いつ何が起こるかわからないし、たとえ何も起きなかったとしても、老いは必ずやってくる。この先、どんな不運に見舞われようとも、再び起き上がれる人間になるためには、「楽しいことをして生きることができる技術」が大事なんじゃないか。

だから、これを書いている。

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Sports Hub (競技場)に燃える聖火

 

ちきりんの Voicy を聴いて自分のペンネームを変えてみた

俳人の夏井いつきの YouTube が気に入って、チャンネル登録をした。「よし、私も俳句をつくってみよう!」とは思わなかったけど、ビデオが毎回とてもおもしろい。投句する気なんかさらさらないくせに、すっかりその気になって、俳号にも使えるペンネームに変えてみた。

【用語解説:俳号】漱石は正岡子規の俳号だった? - YouTube

ペンネームを変えた理由はもうひとつあって、実はそちらの方が大きいのだが、「ちきりんの日記」を書いている社会派ブロガーちきりんのVoicyを聴いたからだ。Voicyを聴けばわかることだが、彼女は「ちきりん」というペンネームにしてしまったことを大失敗と言っていて、悔いても悔やみきれないほどの後悔をしている。

(2020年10月7日放送)2020/10/07 #014 本名かペンネームか/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア

私は数年前から、ちきりんのブログやTwitterを愛読している。もちろん本も持っているのだが、ブログやTwitterをいつも読んでいると、本を読んだときにあまり新鮮な驚きがないというか、なんかどっかで読んだことあるなー、みたいな、ちきりんの言いたいことはわかっているかのように錯覚していた。

ところが、である。ちきりんのVoicyを聴いて衝撃を受けた。何度も何度も、頭をガツンと殴られ、目からは鱗がぽろぽろ剥がれ落ちるのだ。その理由はちきりん自身が Voicy で語っている通りなのだが、なんと彼女はメディアによって伝える内容を使い分けているのだ。

(2020年10月21日放送)2020/10/21 #027 発信サービスの使い分け/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア

そしてそこで語られている通り、Voicyでは惜しげもなく舞台裏を披露しているというではないか。なぜそうしているかも説明しているが、私にとっては、何もかも思いもよらぬことばかりだった。

もったいないので少しずつ聴くようにしていて、まだ全部は聴いていない。だが、私は人生においてとても大切なことを学ばせてもらった気がした。彼女は、楽しく生きていくことを最優先にしているのだ。そんなの当たり前じゃん、誰だって楽しく生きたいに決まっているじゃん、と思われるかもしれない。だが、つらいことをやめられず、無自覚に自分にストレスを強いている人は多いのではないか。本当は必要ないことなのに。本当はやめられることなのに。本当に大事なことを見誤っている人は多いのではないか。自分もそうなのではないか。

自分の心境の変化を記録するために本稿を書いた。

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National Gallery Singapore