北緯1度の暮らし

書きたいことを書いています。

ヒンズー正月 ディパバリ / Deepavali in Singapore 2020

COVID-19の流行で、シンガポールでも一時は市中感染が増加し、4月初旬から約2ヶ月間の外出制限(サーキットブレーカー/ソフトロックダウン)もあった。幸いシンガポール政府の賢明なリーダーシップの下で、その後は市中感染者数を抑制しつつ、慎重に経済活動が再開されていった。北半球が冬に突入して多くの国々で第2波、第3波が猛威をふるう現在に至るまで、シンガポールで生活物資が不足したり価格が高騰することもなく、不自由のない生活を継続できていることは文字通り「有難い」ことであり、この国に住まわせてもらっている者のひとりとして、シンガポール政府、公務員、エッセンシャルワーカーの方々には心から感謝している。

ただ、この国の新規感染者数の推移を海外から見たときに、ピーク時の患者の異常な多さに驚いた人は多かっただろう。言うまでもなくそれは、外国人肉体労働者の宿舎(ドミトリー)での集団感染である。それが世間で問題視され始めた頃、狭い部屋に10〜12人が押し込まれたタコ部屋状態のドミトリーの環境の悪さが取り沙汰され、海外のメディアでも報道された。それに対するシンガポール政府の対応は的確であったにもかかわらず、ドミトリーでの伝染病拡大を防止できなかったことは、この国に内在していた闇の部分を露呈する結果となり、近年の華やかなイメージを損ないかねない汚点となってしまったことは否めないだろう。

シンガポール人材開発省(MOM)によると、2020年6月時点での外国人肉体労働者は35万人で、うち30万人以上がドミトリーでの集団生活を送っている。同省及び保健省による必死の努力にもかかわらず、ドミトリー居住者全員のPCR検査を完了するまでには、長い日数を要した。

ご承知のとおり、シンガポールは移民の国である。人口150人ほどの漁村だった小さな島が1819年に英国植民地になると、海のはるか向こうの国々から労働力が調達され、その多くは苦力(クーリー)として肉体労働に携わった。クーリーといえば中国人と思われがちだが、タミル人を筆頭に南アジアからも移民はやってきた。

当初、東インド会社はシンガポールをインド人囚人の流刑地としても使っており、流刑者は植民地政府機関、道路や橋、教会などの建設に従事させられた。1873年を最後に囚人は送り込まれなくなったが、社会インフラの建設需要は高まり続け、1900年代になるとインド人移民はさらに増えていった。彼らは建設現場のある行政中心部近くに住んでいたが、人数があまりにも増えすぎてしまい住居地が手狭になってしまったため、当時まだ余裕があったセラングーン・ロードにインド人労働者のための住居(テラスハウス)が建てられた。

スタンフォード・ラッフルズは、アジア人移民に対しては民族別に居住地を指定し、棲み分ける政策を採っていた。中華街やカンポン・グラムのイスラムコミュニティなどは、都市計画の一環でつくられた地域だが、セラングーン・ロードにインド系移民が多く住み着くようになったのは、ラッフルズの時代から100年近く後のことであり、セラングーン・ロードが「リトル・インディア」と呼ばれるようになるのは、それからさらに半世紀以上を経た後のことであった。シンガポール観光局が「リトル・インディア」という地域を示す呼称を初めて使用したのは、1979−80年のことである。

さて、11月14日は今年のヒンズー正月、ディパバリだ。その時期になると、リトル・インディア(セラングーン・ロード)の夜はイルミネーションで彩られる。幸い、最近の新規国内感染者数は、ドミトリーも含めて0〜2人で推移しており、買物客でごった返すリトル・インディアを見ていると、シンガポール人は今年もほぼ例年通りのディパバリを迎える準備ができているのではないかと見受けられる。

しかしドミトリー居住者は、いまだに単独行動を許されていない。別のドミトリーに住む友人にプライベートで会ったり、ヒンズー寺院にお参りすることもかなわないままでいる。

f:id:SINILYAN:20201111003729j:plain

セラングーン・ロードのイルミネーション